///10周年記念ロングインタビュー掲載///見えてきた答えは「自分を突き通すこと」 ミュージシャン・斉藤めいが駆け抜けた10年間と現在地

2014年に高円寺のライブハウスでシンガーソングライターとしての産声をあげた斉藤めい。8月に10周年を迎える今年2024年は、4月に開催された10周年目前ライブを始め、これまでに彼女が出会った人や場所、できごとから受け取った熱をさらに増幅させたような企画を次々展開していく予定だ。

「今、すごくライブが楽しい」と語る彼女だが、この心境に至るまでには長い長い暗中模索の日々があったという。遅咲きだった彼女はどのようにしてシンガーソングライターへの道のりを歩み始めたのか。そこからどんな悩みを抱え、どんなきっかけを経て今の心境に至ったのか。斉藤の友人でもあり活動開始前からの定点観測者でもあるライター坂口が、この10年間の彼女の歩みと現在地、これからについて話を聞いた。

音楽への思いばかりが募った 大学卒業後の2年間

斉藤めいのミュージシャンとしての10年間の道のりは、活動開始前の日々を語らずして始まらない。大学の軽音サークルでライブの楽しさを知った斉藤が卒業後に初めてライブハウスのステージに立つまで、実に4年の月日がかかっているからだ。

特定のバンドを組んでおらず、当時楽器も演奏できなかった斉藤は「誰かに作曲や演奏の手助けをしてもらわないとライブはできない」と思い込んでいたという。とはいえサークル仲間はそれぞれ就職して忙しく、新しい仲間を集めようにもどこで誰にどうやってアピールすればいいかも分からなかった。


めい:

当時「音楽やりたいんです」って人に相談すると、「本気でやりたい人っていうのはやりたいなんて言ってない。もう行動に移してるよ」みたいなことを言われたりしたけど、当時の私はほんとに分かんなかったんだよね。

やりたい気持ちは本当なんだよ、でも本当に何からやればいいのかわからないんだよ誰か教えてくれよって思いながら、「いつか一緒にやってくれる人が見つかればいいな」って思いながら、毎日仕事終わりにカラオケに行ってサンボマスターをキー3個あげて歌う日々だった


坂口:
 なんという迷走ぶり(笑)。


めい:
ほんとに(笑)。カラオケに入ってない曲は、当時のウォークマンに入れて、勝手にカラオケのマシンに配線つないで音出して練習したりとかしてた(笑)。



そんな日々を続けて約2年が経った頃、「あ、私このまま死ぬまで行けてしまうな」と感じる瞬間があったと斉藤は語る。



めい:

ときどき自分の熱みたいなものを持て余して誰かにぶつけたりとかそういう自分の性質に困ることはあったけど、めちゃくちゃ不幸ってわけでもないし、周りの人には恵まれてたと思うし、なんとなく音楽やりたいけど自分では何もできないからできないやって思いながら、そのまま人生行けてしまうなって思ったんだよね。

でも自分の場合は、多分このまま音楽やらなかったら、死ぬ前に……、死ぬ前まで行かなくてもちょっといい年になった頃に、「私、音楽やってたら結構いいとこまで行ったと思うんだよね」みたいなことを周りにめちゃくちゃアピールしながら「あの歌手いまいちじゃない?」みたいに言いながら自分の後悔をまき散らしながら生きていくような気がするな、それはそれでひとつの人生としてはありなんだけど自分は嫌かもしれない、となぜか強く思ったのよ。それで、ちょっと行動に移しだしたんですよね。



空回りの末に辿り着いた シンガーソングライターへの道

動き始めてからの約2年間は空回りの日々だった。なんとかバンドメンバーを集めてみたものの、求心力が持てずに解散。謎のプロダクションに所属したり、制作会社に勤める友人に演奏なしのアカペラ音源を渡したりしたこともあった。だが、こうしたいくつかの迷走を経たことによって、ようやく斉藤はシンガーソングライターとしての道のりを歩み始める。


めい:

バンドがうまくいかなかったのは、私が「楽器はできないし曲も作れないけど自分の歌がやりたいです」って姿勢だったからだと思う。当時の自分にはまったくそんなつもりなかったんだけど、やっぱりどこか他人任せだったんだよね。今だって自分にできないことは人にお願いするけど、当時は、本当は突き詰めたら自分でできるはずのことも、できないって決めつけてた。

そうやっていくつか迷走をくり返した末に「もうこれは自分で曲を書いて自分で演奏するしかないんだ」ってことにやっと思い至って。今はやる気になればYouTubeとかいろんなツールで情報を集められるんだろうけど、私は自分の不器用さを知っていたからとにかくまずはお金を払って人に頼ろうと思って、とりあえずギターを買ってギター教室に通い始めた。当時のギターの先生に「曲が作りたいんです」と伝えたら「じゃあとりあえずカバー曲から練習しようか」って基本からやってくれて、eastern youthやQUEENの曲をカバーして覚えたコードを使って、見よう見まねで曲を作り始めたんだよね。 それがね、2013年じゃないかな。


坂口:

おお、ようやく自分の足で歩き出したんだ。


めい:

そう。それと同時に「弾き語りライブ」っていうものがどうやらあるらしいぞということに気づいた。自分は「ライブやる=誰かが一緒じゃないとできない」と思ってたけど、1人でステージに立つ「弾き語り」っていうスタイルがどうやらあるらしい、高円寺にはそういうライブをやっているライブハウスがたくさんあるらしいということを人から聞いて、「高円寺 ライブハウス 初心者」っていうキーワードでネット検索をしてみたんだよね。

それでヒットしたのが初ライブの会場になった「高円寺 Club ROOTS」。そこに「初心者なんですけどライブがしたいです」って連絡を入れて、自分を逃げられなくするため、約半年後にライブの予約を入れました。


がむしゃらに弾きすぎて活動1年で
ピックガード横に穴が空いた初代のK.Yairiギター
(撮影:Toshiyuki Okubo)


初ライブまでの半年間、やはりライブをするという目標が明確になったことでスイッチが入ったのだろう。曲作りや歌の練習だけでなく、実際に足を運んでライブを見にいくことが増えたという。なかでも影響を受けたのは、2014年4月に開催された埼玉の音楽フェス「ぐるぐるTOIRO」だ。


めい:
ぐるぐるTOIROって、いい意味で癖の強い人たちが集まるフェスだったから、自分が今まで観たことのなかったライブをたくさん見られたんだよね。特に刺激を受けたのは、クリトリック・リスさんと笹口騒音ハーモニカさん。クリトリック・リスさんはソロでオケ(カラオケ)を流しながら。笹口さんは弾き語り。クリトリック・リスさんはたった一人なのに本当に会場がわーって沸いてて。

当時の私は思ったのよ、「いつかこの人と共演したいな」って。この間、2024年4月にやった10周年目前ライブではその想いが叶ってクリトリック・リスさんと共演できて。MCで「当時の私は“ライブってこういう風にやるもんなんだ”って思ったんですよ」って言ったらクリトリック・リスさんのファンから「違うよー!」って愛のあるやじが飛んできたけど(笑)。



差し出された手を掴み続けた駆け出し期間

こうして迎えた2014年8月5日。記念すべき初ライブは、持ち時間30分の枠でオリジナル曲含む6曲を歌い切った。


めい:
友達がたくさん来てくれて嬉しかった。同窓会みたいだった。「共演者の方が好きだった」なんて感想もあったけど(笑)、「まだまだこれからだね」って言ってくれた人もいた。全員本当にありがたかったな。ただ、友達だからこそ私の初ライブを応援しに来てくれたけど、これからはそういうの抜きで音楽を聴きにきてくれるファンを作らなくちゃいけないんだ、とも気が付いた。


2014年8月5日のライブ映像より



2回目のライブは3ヶ月後の11月。この時すでに、その後長期間に渡ってライブで演奏することになる「爆弾」「29度の南風」「今日が美しい」などの曲を演奏しており、作曲の核ができてきたことが伺える。3回目は12月。知人の紹介で、オープニングアクトとして出演した。


めい:

これが人生3回目のライブをする私からしたら大きな場だったんだよね。私はオープニングアクトとはいえ、その日の共演者がすごくうまい人たちだったの。ようやったよね。でも当時はもうがむしゃらだから「やります!」って言って。

その後は出演したライブハウスからまた声がかかったり、共演者が企画ライブに誘ってくれたりしてライブの数が増えていった。ライブ動画をyoutubeに上げると、そこから連絡がくることもあった。とにかく来た誘いは断らない、声がかかったものは基本的にぜんぶ出るようにしていたら、月に1回だったライブが、2回、3回、10回と増えていった感じかな。

自分が不完全だったとしても差し出せるものすべて差し出し始めたら、「歌なんて作れない」「ライブなんてできない」って思ってたけどなんとかしてやり始めたら、ありがたいことに手を貸してくれる人たちが現れ始めた、そんな感じだった。




そして最初のライブから約3年が経過した2017年6月17日、のちにホームとなるライブハウス「高円寺喜楽」で、初のワンマンライブを開催。会場は満員、初めてとは思えないほどの大盛況となり、斉藤らしい熱気に満ちた一夜となった。


めい:
いつもの弾き語りだけじゃなく、東北・石巻のつながりで仲良くなったドラマーの前ちゃんと、前ちゃんが声をかけてくれた、当時「memento森」ってバンドでベースを弾いてた木原さんをゲストに呼んで、バンド演奏する夢も叶った。

私を面白がってくれる人とか、ドラムとベースの2人のファンとかいろんな人がたくさん見に来てくれて満員になって、あの景色は今でも忘れられないよ。今見るとすごく自分つたないんだけど、うわーって全力出してやり切って、見に来てくれたみんなに「これからは最強めいになります!」って宣言もして、終わった後はやりきったなと号泣してた。



悩みもがくなかで恵まれた出会いの数々

初めてのライブ以降、縁に恵まれとんとん拍子でライブの出演数を増やし、3年後にはワンマンライブを成功させるまでに成長した斉藤めい。しかしその裏では常に、ある“不安”がついて回っていたという。


めい:

私たちどこにも所属してない所謂「野生のミュージシャン」は、たいてい集客のことで悩んでるんだけど、私も例にもれずいつも「自分目当てのお客さんが1人来るか来ないか」という状態でライブをやってた。 0人ならば自分がやってる音楽には価値がないんじゃないかとまで思ってたし、1人でも来てくれたら「私はまだやっていける」みたいな気持ちになる、この時期はそういうアップダウンにすごく苦しめられてた。

お客さんひとりひとりにいろんな背景があるから、当たり前だけど、来てくれなくても誰も責められないんだよね。だからこそ自分が無力なんだって方向にしか思考がいかなくて苦しかった。そうして産まれた自信のなさと、ライブハウスの人とか企画に呼んでくれた人への申し訳なさみたいなものが合体して「自分の音楽には価値がない」って考えにずぶずぶ沈んでいく感覚があった。


2016年頃のライブにて撮影(撮影:Toshiyuki Okubo)



その苦しみから抜け出そうともがく斉藤の活動量は増え続け、多い時には15回ほどライブをこなす月もあったという。「この時期は本当に自分のことでいっぱいいっぱいで見えていなかったことやおろそかにしていたことがたくさんあったと思うから、関わってくれた人や聴きにきてくれていた人にごめんなさい、って思いがある」と斉藤は語る。しかしその一方、無我夢中でもがいたことで今に繋がるたくさんの出会いも生まれた。

同じ埼玉県出身ミュージシャンで友人の滋野有紀子と埼玉県のライブハウスめぐりをした経験は、現在の活動を大きく支える埼玉繋がりの縁を作ってくれた。仙台から遠征に来ていた千葉ケイコとずれずれ犬(わん)に加え、飛び込みで行った福島のライブコンテストで 高野真理花(現・iert)らとも出会い、今も約3か月に1回の頻度で遠征に行く、東北地方とのかけがえのない縁が繋がった。斉藤の様々なレコーディングやライブに参加しているピアノの玲兎と出会ったのもこの頃だ。


めい:
本当に始めたての頃に見つけてくれて、面白がってくれたお客さんも何人かいたんだよ。ライブ中、自分が音楽やりたくて数年間くすぶってた話をしてないのに感じ取ってくれて「内にあるものを爆発させたいんだね」って言ってくれたり、私をモチーフにした短い小説みたいのを書いてくれたり。あとカメラマンの人で、かっこいい写真を撮ってくれる人もいた(第2章に挿入されている写真を撮影したToshiyuki Okuboさん)。面白がってくれて、応援してくれる人が少しずつ増えてきたんだよね。


坂口:
場や仲間との出会いだけじゃなく、お客さんとの繋がりもたくさん生まれたんだね。


めい:
本当にそう。あと、振り返るととても大きなできごとだったなと思うのが、喜楽をホームに決めたこと。

友達のプロデューサーをしてるカツさんて人から「めいちゃんはホームのライブハウスを作った方がいい」ってアドバイスをいただいたのね。「あそこに行けば斉藤めいが出てる」という状態を作ったほうがいいと。じゃあどこをホームにしようかって思った時に、やっぱり真っ先に「喜楽にしよう」と思って。店長のプニ夫さんに言ったらすぐ受け入れてくれた。 それで最初は月に1回から始めて、最終的には月3回ぐらい喜楽でライブしてた。自分で出演者を呼んで企画ライブなんかもするようになったんだ。

その中でプニ夫さんに「本当はバンドがやりたいんだけど、やってもうまくいかなかったから弾き語りを始めた」っていうのを話したら、 彼はドラマーだったから「じゃあ俺がドラム叩くよ」って言ってくれたんですよ。プニ夫さん自身も昔からパンク系バンドをずっとやっててそこの繋がりがすごい強いから、その中からベースのMASA、ギターのtsuruさん、バイオリンのRURIさんを誘ってくれてバンドができたんだ。それが2018年。

ぷにおさんが命名したバンド名は「斉藤めい+2RPM」。tsurumi(2)、RURI(R)、プニ夫(P)、MASA(M)の頭文字。RPMってレコードが1分間に回転する回数の単位なんだ。2ってすごい遅いと思うんだけど、音楽始めるのも動き出すのも遅いしちょうどいいかって(笑)。



クラファンを通して気付いた「応援してくれる人」の存在

こうした数々の出会いを経て、2018年11月に東新宿の「真昼の月 夜の太陽」で開催されたワンマンライブは、曲ごとに弾き語り、バンド演奏、ピアノやオーボエとのコラボなど、さまざまな演奏スタイルを展開。

演奏する曲目や仲間も増え、バンドとしての活動も軌道にのってきた斉藤は、アップデートした音楽をアルバムにまとめたいと考えた。ところが、音楽活動に充てる時間を増やすために仕事量を最低限まで抑えていた斉藤には、制作に充てる資金がなかった。そこで挑戦したのが、2018年12月にスタートしたクラウドファンディングだ。


当時のクラファン画面。
オンラインで集めた429,465円に手渡し分の98,628円を含め、
508,592円の支援額に到達した。



めい:

当時、周りにクラファンで資金集めをしている人がけっこういたから、制作費どうしよう、となったとき「これしかない!」って思ったんだよね。不安だったけど、 応援してくれる人も少しはいるんじゃないかって思ってやってみたら、ありがたいことに、目標の50万円を達成して。最終的に92人の人が支援してくれたかな。なかには「この人が!?」っていう意外な人もいて本当に嬉しかった。

私、クラウドファンディングをやる前はさ、こういうのってお金に余裕がある人がやってくれるもんだと思ってたのね。もちろんその側面もあるかもしんないけど、あの時「超金欠!」って言ってた友人が「めいちゃんが頑張ってるから」って1万円支援してくれたの。金欠だったら100円や500円とかでも十分ありがたいのに。それで「お金がある人がやってくれるんじゃなくて、応援したいって思ってくれる人がやってくれるものなんだ。ほんとに“気持ち”なんだな」っていうのをその時にすごく実感した。

これまで、お客さんがライブに来てくれないとしょっちゅう自信をなくして落ち込んでたけど、 クラウドファンディングを通して「“応援してるけど今このライブには来れない人”がいっぱいいるんだ」っていうのに気付けたのは大きかったと思う。


2019年10月5日に発売された全11曲入りの1st Album『ラブアンドピース現代語訳』。
曲の半分を2RPM、もう半分を、曲ごとにイメージが合うミュージシャンに演奏を依頼し、
レコーディングをM&N録音サービスの三木肇氏、ジャケットの写真をカメラマン小岩井ハナ、
デザインをバンド仲間の安野公祐(サヨナラボーイ)に依頼した。



2019年10月、友人知人の応援を得て初のベストアルバム『ラブアンドピース現代語訳』が完成。


めい:

今聴くとまだまだ自分の歌にはつたないところもあるって感じるけど、結果的に今まで自分がしてきた経験や出会った人たちがぜんぶ集約されたような、ファーストだけどベストみたいなアルバムになりました。



コロナ禍、苦境に立たされたからこそ見えてきたもの

ところがアルバム完成後、クラファン開始以降続いていた右肩上がりの勢いが急速に衰えてしまう。なんとかしたいと思いながらも体力も気力も続かず空回りする日々に変化が起きたのは、2020年の春。新型コロナウイルス感染症が猛威をふるいはじめたのだ。

月に10本ほどあった斉藤のライブは月1〜2本ほどに減少。その波はミュージシャンだけでなくライブハウスにも直撃した。「感染拡大防止のために営業を停止すべき」という風潮を受け、多くのライブハウスが難しい選択を迫られることになった。

葛藤の末、営業することを選ぶライブハウスも多々あった。その是非をめぐってSNS上で意見が激しくぶつかり合うなか、斉藤はライブをやり続ける選択をする。


めい:
やっぱりライブハウス自体が動いてるなら自分もやりたいっていう気持ちがあって、賛否両論あったけどあのとき私は「ライブを続ける」って選択をしたのね。それは自分のためでもあったけど、「音を鳴らし続ける」「場を提供し続ける」選択をしてくれたライブハウスの想いに共鳴した部分が大きいと思う。普段小規模でやれてる自分だからこそ、その想いに手を貸せると思った。

もちろん誰かに批判されるんじゃないかとか、自分も未知の病気にかかってしまうんじゃないかって怖かったけど、あの時の自分は、怖さ以上に、自分に今できることをやらなきゃという使命感に燃えてて。

その中でふと、どこか気持ちが楽になってる自分に気付いたんだよね。今思うとそれって多分「自分にできることはこれだ」っていうものが明確にあったからじゃないかと思ってるんだ。


坂口:
そっか。今まで「自分の音楽には価値がない」って思い続けてきたけど、その体験をきっかけに自分の音楽が誰かの力になっている実感を得たんだ。


めい:
歌うこと自体が自分の役割と思えた感じかなぁ。結局自分は「お前の音楽は世の中になくても同じ」みたいなのを自分自身で思ってしまうのが一番ツラかったのかな、って思った。


坂口:

心の中の自分のネガティブな思いってすごく強力だもんね。


めい:
そう。あと、アルバム制作後に気力体力の続かない日々が続いて「もしかして音楽への熱が冷めてしまったの?」と不安になっていた時もあったんだけど、そうやって夢中でやってるうちに「そうじゃなかった」って思えたんだよね。

2022年12月、高円寺U-hA(ウーハ)にて、
観客数の制限をした上で配信を同時に行ったライブの映像



使命感に燃える斉藤は、まだ感染症の勢いが衰えない2021年の春に2枚目のアルバムの制作を開始。しかしその最中、喜楽の店長で2RPMのドラマーである「プニ夫さん」がこの世を去ってしまう。


めい:
正直、プニ夫さんが亡くなったことはまだ実感が湧いてない。残してくれたものが大きすぎて、今も生きてるみたいな感覚。

テッキンさん(HUSKING BEEのベーシスト。当時ウクレレ弾き語りでライブを行っていた)と知り合って2016年に喜楽を紹介してもらってから、いきなり大好きだった二宮友和さん(弾き語り名はトンカツ。元eastern youthベーシスト)と共演の日を組んでもらったり、林明日香さん(元water closet)、藤井めぐみさん、挙げたらキリがないけど本当にすごい先輩や仲間たちとたくさん一緒に演らせてもらって。

2018年頃はほんとに毎週毎週喜楽に入り浸ってバンドの練習させてもらったり、遅くまで呑んで終電なくして喜楽の椅子で寝かせてもらったりとかさ、私があまりにも喜楽に寝泊まりするから最終的に「ここで寝なよ」ってマット敷いてくれたり、タオルケットかけてくれたり(笑)。

かけがえのない夜をたくさん過ごした。計り知れない影響をもらった。だから、いなくなって悲しいって気持ちより、目に見えないものの存在を信じられる大きなきっかけになったって思いのほうが強いんだよね。うん。今でもいる。今でもいますって感じ。



「今、ライブがすごく楽しい」わだかまりを解いた視点の転換

2022年2月にリリースした2ndAlbum『さようならこんにちは やさしい人』。
ギター・内田心晴、ベース・木原潤、ドラム・岡山たくとのほか、
池袋Living bar FI5VEで出会ったエンジニアの小崎弘輝氏などの力を借りて完成した。
レコ発ライブは、当時パーソナリティを務めていた地元・埼玉県川越市のラジオFMルピナスで配信。
別日にゲスト出演した地元の盟友・池永芽がアルバム紹介を行った。



2022年2月には、2枚目のアルバム『さようならこんにちは やさしい人』が完成。1stアルバム発売後同様の“落ち期間”をほんの少し過ごすも復活し、2023年にはバンドメンバーも新しくなり、ベース・MASAのほか新たにドラム・fujise、ギター・hibariを加えた4人体制となった。



新生2RPMで行ったライブ。
年上のメンバー達ともとてもいい状態でバンドがやれているという



こうして迎えた今年2024年4月には、上述のクリトリック・リスを始め、飲み友達の奥田舞子バンド、ライブを観て感銘を受けた狐火の面々をゲストに迎えた10周年直前ライブ「テンサイデサイテン」を開催。これまで応援してくれた人々や夢を共にした仲間たちが集結したダイジェストのようなライブになった。最近は「すごくライブを楽しめてて、自分自身のこれからに期待している状態」になれているという。


坂口:
一時期は「自分の音楽には価値がない」って考えにはまって苦しんでいたのに、今はそこから抜け出せたんだね。


めい:
うん。もちろん今でもふと昔の意識に戻ってしまうことはあるけど、そうだね、すごく楽になったと思う。


坂口:
それは、コロナになってある種の使命感をもとにライブを続けたことで「自分の音楽には価値がある」って思えたからかな?


めい:
それもひとつの要因になってるけど、きっかけはいくつもあって、その全部が時間をかけて自分の中で自信に変わっていって今の状態に繋がってる気がする。

たとえば私は自分のことでいっぱいいっぱいになりがちなタイプだったから、意識はしてなかったけど、「ライブは闘いだ! ほかの共演者に勝たなくてはいけない!」と思ってたのかもしれない。でもコロナが流行りだして、ミュージシャンの間でライブをする・しないの対立が生まれてみんながピリピリし出して……その状況に反発するように生まれた「私たちは“敵か味方か”なんかじゃなく、想いは同じじゃん!」って思いが、自分の中の「ライブは闘いだ」って意識を外してくれたと思う。


坂口:
めいちゃんは多分もとから「みんな仲間だ」って分かってたと思うけど、コロナ禍での経験を通してその感覚がすごく腹落ちしたんだろうな。


めい:
そうだね。感染の波が落ち着いて、あの時ライブをした人もしなかった人もどっちも間違ってなかったって思える結果になったこともその感覚を後押ししてくれた気がする。


2024年4月に中目黒SPARK JOYで開催した
10周年直前ライブ「テンサイデサイテン」の様子



めい:

あと、最近は世の中自体がどんどん大変になってきてる面もあって、その中で生きてる私もこの世界、一生懸命生きている人たちの一員だって意識が強くなってきたように思う。その意識が今までの「自分を見てくれ」「自分の歌を聞いてくれ」って思いを「自分は何ができるのか」って考えに変えてくれたかも。


坂口:
意識が自分に向いてると今見てくれる人が少なければ落ちこんじゃうけど、意識が外を向くと思考が未来に向かっていく感じがあるよね。「お客さんが来てくれたらどうやって喜ばせよう」って方向に頭が働くから。


めい:
そうそう。まだ見ぬ未来のお客さんにも、自分にしかできないことで何を届けられるのか、って方に意識が向くように最近はなってきた。



「自分にしかできないこと」を突き詰めて 一歩ずつ未来へ

「自分にしかできないことは何か」その問いは、生きている限り考え続けるものなのかもしれない。しかし、今、斉藤の中には、おぼろげながら見えてきている「答え」があるという。


めい:
自分にしかできないことを考えたときに「自分を突き通すこと」っていうのが見えてきていて。私よく「見た目はおとなしそうなのに音楽はけっこう激しくてびっくりした」って言われることが多いんだけど、 それでいいって思えてきたんだよね。

誰もがさ、いわゆる普通に見えるような人でも何かお腹の中に抱えて生きてると思っているから、普通の大人しそうに見える人が実はこんな激しいライブをしてましたみたいなのを見て「自分も抱えてるものをこのぐらいバーン! って出してもいいんだ」って思ってもらえたらいいのかなって。もちろん「私の歌を聞いてこんな風に感じてください」ってこちらが決めるのはおかしな話だから、思わなくても自由でいいんだけど。

でも、何も悩みがないと思われる人だって何かしらお腹の中にものを抱えてて、それが生きてるとか人間っていうことだと思うんだよ。私は。それこそ10年前の自分みたいにそのままでも一生生きてはいけるかもしれないけど、どこかで発散したりとか、自分の中にあるものに気付いたりすることは、きっと世界平和に繋がると思う。結局人が争いたくなるのって外側を取り繕いすぎた時に、相手が気に入らなくなったり、攻撃したくなったり排除したくなるのかなって思うから。


坂口:
最初の方にめいちゃんが言ってた、 本当は音楽がしたいのにやらないでいたら音楽をやって成功してる人たちを見て「いまいちだよ」って言いたくなるとかってことだよね。


めい:
そう。そういうのを熟成させちゃうと、人はちょっとこじれた方に行ってしまうような気がするから。まずは自分が、自分の内側にあるものを誰かに音楽で見せていけたらなと。


友人・魁-KAI-の誘いで遠征した北海道でのライブの様子。
デビュー当初から今まで一貫して「人の繋がり」が斉藤の活動の場を広げてくれた



坂口:

振り返ってみて、10年前と今でめいちゃんの音楽はどんな風に変化した?


めい:

最初は自分の中にあるグツグツしたもの、衝動性とか怒りとかそういうものをとにかく爆発させてた。それはあの時の自分だからこそできた音楽で、宝物のように思ってるんだけど。

じゃあその衝動とか怒りとかがなくなった今の自分はどんな曲を作ろうかって考えた時、「人が喜んでくれるものを作る」っていうのは……一度は思ったけどね、いやいやそれをやるのは斉藤じゃなくてもいいんじゃないかって思ったのよ。

やっぱりさ、自分は自分にしかないわけわかんなさ、人に理解されづらいところを、「面白いね」「ぶっ飛んでるね」「唯一無二だね」「熱いね」って言ってくれる人達、激動の世を一緒に越えてきた人達の顔を思い浮かべながら、曲を作っていきたいなと思った。




インタビューの最後に、斉藤が見たい「これからの景色」を尋ねると、これまでの10年間、人に助けられながら地道にゆっくり進んできた斉藤らしい答えが返ってきた。



めい:
夢として「ロックフェスに出たい」って思いはずっとあって。「今なにか行動しなきゃいけないのかな」っていう焦燥感もあるんだけれども、自分は、大きな目標を見据えて計画的に進むやり方よりも、できることをひとつ、またひとつと積み重ねて積み重ねて積み重ねて気付いたらこんな景色見えた! ってタイプだと思うので、積み重ねていきます。

今も関わってくれてる人、かつて関わってくれた人、今回名前は出してなくてもお世話になった人、今はなくなってしまったけど多くの経験をくれた場所……思い浮かべるととても感謝を返せそうになくて途方に暮れるけど、本当に本当に、ありがとうございました。これから先も関わってくれる人にいっそうありがとうと言いながら、まだ見たことのない景色を一緒に見に行けたら嬉しいです!




取材・文:坂口ナオ




2022年に作成したものですが、出会ってくれた皆様へ渾身の気持ちで作りましたので再掲させて頂きます。

斉藤めい

 

斉藤めい

歌とギターと作詞と作曲🎸 ギター弾き語りとバンド、ときどき楽器置き去り ラブアンドピース配布中

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